平氏の専横に対して反抗の第一波

平氏の専横に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第2皇子以仁王の挙兵だった。以仁王は優秀であったが建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺・園城寺(三井寺)もこの動きに同調した。しかし計画は未然に発覚、清盛の手早い対策により検非違使の藤原景高・藤原忠綱が300あまりの兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれ平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄。治承4年(1180年)6月、一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市)を望む地への遷都を目指して福原行幸を強行する。しかし以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝、それとほぼ同時期に甲斐源氏が挙兵する。
update:2009年08月24日